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もし、この本を世界中の人が読んだ時点で世界平和が実現していなかったら私の命を差し出します。:著者

1:心の問題の解決マニュアル

 
*『心の病』

 私は、奥多摩で魂を割って、心の中に溜め込んだストレスを全部吐き出してしまうまで、20年近く、そううつ病(双極性障害)とパニック障害に苦しめられて来ました。精神科に半年間入院していたこともあるし、月に一度は今でも通院しています。現在の担当医である河内先生に巡り合うまで、5カ所の病院を渡り歩きましたし、その間、正式な病名も不明確まま不適切な投薬治療を受け、余計に症状が悪化したこともありました。
そううつ病についてはここでは触れませんが、パニック障害というのは電車等の人混みの中で突然、胸が圧迫されるような不安感、恐怖感が襲って来て、動悸が激しく呼吸が苦しくなり、心身が固まってしまう、といった症状が現れます。私の場合は「パニック」というより「フリーズ」に近く、思考回路が停止し、小動物が巣に逃げ込むように、とにかく人目を避けて、身を隠したいという状態になります。だから予期不安(また同じ症状に襲われるのではないかという恐怖感)が起こり、家からほとんど出られなくなります。癌や骨折等の眼に見える病気や怪我とは違うので、事情を良く知る親しい人間以外、周囲の理解もあまり得られません。
現在、医学的にこの症状は脳機能障害と考えられていますし、脳に対しての投薬治療も確かに効果はあるのですが、心の病の根治を考えるなら「精神疾患=頭の病気」と考えずに「心は、やはり胸にある」と考えた方が、心の仕組みはイメージしやすく、理解しやすいと思います。
精神科医や心理学者の方々が、どう思われるかは分かりませんが、自分なりに心について奥多摩で見えるようになったことがあるので書いてみます。

 この、パニック発作を起こしている時というのは、人間は「心のバインド」に圧力が非常に強くかかった状態です。「心のバインド」というのは私の造語で、一言で説明すれば「心を挟む、縛る、抑えつけるもの」です。例えば、泥棒はいけないとか、赤信号では止まるといった約束/縛り/ルールも「心のバインド」だし、外を歩く時は服を着るとか、人に迷惑をかけてはいけない、という社会通念も「心のバインド」です。バインド・ゼロでは動物になってしまうので、社会的生物として人間が生きていくためには、最低限の「心のバインド」は必要不可欠です。ただ、マジメな人ほど心の病が発症しやすいのは、いろいろなことを気にし過ぎたり、考え過ぎたりてしまい「心のバインド」に圧力がかかりやすいから。その圧力が強すぎると、心は心自体を自衛するために、心の病を発症するのだと思います。

 統合失調症にも使われる抗精神病薬には、抗躁作用や鎮静作用を持つものがあるので、それを使用する。ただしわたしの治療経験では、それで落ち着くというよりは、薬の力で無理に抑え込んでしまっている印象が強い。不自然かつ力ずくのところがあって、正直なところあまり感心できない。それでも逸脱行動を重ねるよりはマシ、といったところであろうか。
春日武彦著『問題は、躁(そう)なんです/正常と異常の間』(光文社新書)

 人間の身体は発熱することによって外部から侵入して来たウィルスをやっつけ、自衛します。同様に、心も心自体を守るために心の病を発症するのだと思います。うつ病や、そううつ病、統合失調症といった精神疾患を発症することによって、逆に、心の内部に溜まったガスを抜き、圧を下げる。もし、発病しないままに、どんどん「心のバインド」にかかる圧力が増し、心の内部のガス圧が限界閾値(いきち)を超えてしまったら、最終的には心が爆発し、破壊されてしまうから。つまり、心の病=やっつけるべき悪い病気ではなく、精神疾患は人間が自分の心を守るために働く自衛メカニズムなのだと思います。
図らずも私が奥多摩で行ったように、心を挟む、縛る、抑えつけるもの(一言で言えば、ストレス)さえ外してしまえば、心は病む必要がなくなります。体内から悪い病原菌が消えれば、自然と熱も下がるように。
精神疾患を発症したら薬の助けも確かに必要ですが、ストレスの根本原因を取り除かない限り、完治はしません。薬の力でバインドの圧力を緩めることは出来ても、薬の力でバインドを外すことは出来ない。精神薬には酒やドラッグや煙草のように依存性があります。禁断症状は起きなくても、ないと不安になる。
奥多摩以降、私は、そううつ病やパニック障害の症状は完治(バインドは完全に外したので、恐らく寛解ではなく完治)したけど、20年服用し続けた薬を7錠飲まないと、今でも眠ることが出来ない。西洋医学が処方する、ほとんどの薬がそうだけれど、ケミカルな薬は対処療法にしかならない。そして、身体の病気は自分の力ではどうすることも出来なくても、心(脳/精神)の病気は、ストレス(バインド)を外しさえすれば、治すことが出来る。そのためには、「心の仕組み」を知る必要があります。
 心や精神は、見たり触ったりすることが出来ないので、本質的には科学が扱うことの出来る領域の外にある対象です。一般的には、心の病=脳の問題と考えられていますが、私は、心のすべてを身体としての脳に還元することは出来ないと考えています。続くチャプターで、人間の心のメカニズムについて、さらに踏み込んで書いてみたいと思います。そして、この本が少しでも、私と同じように心の病に苦しんで来た人のお役に立てることを祈っています。

*『心の仕組み』

 心は人間にとって永遠の謎でした。だからこそ何千年もの間、物語が書き継がれ、そして、その心の謎に対する興味のために、人々は物語を読み続けて来たのだと思います。
 夏目漱石の書いた『それから』(新潮文庫)の中には、代助と三千代のこんな会話があります。

「貴方(あなた)はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」
「漂泊---」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」

 では、この人間同士の心と心の不思議なやりとりは一体、どういうメカニズムで成り立っているのでしょう。
なぜ人間の心がややこしいか、というと、人間の心は三重構造になっているからです。生まれたばかりの赤ん坊、すなわち自然存在、動物として一番ナチュラルな状態にある時は、人間には自我なんてものはありません。でも、この自然存在がコトバという人工物を脳に注入されることによって、ヒトは自分と他の存在を差異化(区別)するようになり、自我というシステムを作り上げる。そして、その自我の上に、さらに理性というシステムを構築します。
 動物にも喜怒哀楽(剥き出しの心)はあるけれど、野性存在は感情をコントロールしようとはしません。しかし、人間は動物としてのナチュラルな心を自我でシールドし、そのシールドをさらに理性でシールドしている。そういう三重構造になっているのが人間の心なのだと思います。
 人間は、外界からの刺激が、ダイレクトに心に入って来ない。五感が認知したナマの感覚が、脳で言語化され、その加工された人工的なデータがようやく心に届く。そして、その心が感じたピュアな感覚を、再び脳が言語化し、相手にコトバを発する。その相手は、伝達された情報を自身の脳内言語システムで処理して心に落とし込み……といった、ものすごくややこしいことを、人間の心はやっているわけです。
 すごく簡単に書くと、こういうことです。自然存在に近い小さな子どもは、思ったことを何も考えずに、そのまま口にします。でも普通、大人はそういうことはしません。こう言ったら相手がどう思うか、と相手に気遣うこともあるだろうし、逆に、相手を論破しようと考えながら戦略的に言葉を選ぶこともある。もしくは異性を口説くために心理戦を仕掛ける場合だってあるかも知れない。
 子どもとは違う、こうした大人の言葉の使い方、コミュニケーション方法は、すべて「企み」です。つまり意図を含んだ言葉。子どもは思ったことを口にするけど、大人は考えたことを口にします。
 とは言え、人間(大人)同士のコミュニケーションの本質は意外と単純です。どんなに戦略的な言葉を駆使しようが、いくら頭が良かろうが悪かろうが、心と心は、パッシブ・ポジション(受容スタンス)とアクティブ・ポジション(反撃スタンス)の交換によって成立しています。
 例えば、隣に座ってテレビを見ている人が「やっぱり、マツコ・デラックスって面白いよね」と言ったとします。そうすると、返事を返す方は「うん、面白いよね」と相手の言葉を受容するか「いや。おれは、スギちゃんの方が面白いと思うけどな」と反論するかを無意識に判断しています。そして返事を返された方は、発言を受容されれば快だし、反論されれば不快になります。
 どれほど高度な政治的議論であれ、どれほど難解な数学的論争であれ、そして、どれほど凡庸(ぼんよう)な日常会話であれ、人間は誰しも会話する時、このパッシブ(受容)とアクティブ(反撃)のキャッチボールをしています。テレビの中の人でも友人でも家族でも構いません。誰かが何かを言って(この文章を読んで)、それに対して自分が言葉(感想)を返す時、一瞬、自分の心の中を意識化してみて下さい。その時、あなたの心は誰かの(私の)意見を受け入れていますか? それとも反発を感じましたか? そして、あなたが返した言葉を相手は受容しましたか? 反論しましたか?

「これ、美味しいね」「うん、そうだね」

たった、それだけの会話でも、人間の心は瞬時かつ無意識に、パッシブかアクティブか判断しながら他者とコミュニケートしています。そして、互いの心理構造が見えていれば「あ、今、パッシブに入った」「あ、今、アクティブに入った」という形で納得感があるのでフラストレーションも溜まりません。身近な人が何か言って、それが差し障りのないことならば「でもさー」とアクティブで返事を返さずに「うん、そうだね」とパッシブで返事をするクセを付けておくと人間関係は好転して行きます。
何だ、そんなことか、と思われるかも知れませんが、ピッチャーがどんな球を投げて来るかが分かっていれば、ボールを打ち返しやすいように、会話(人間関係)も、コミュニケーションの構造、メカニズムを理解していれば対処しやすい。そして「人間の心」という一見、複雑怪奇なメカニズムも、実は「0(パッシブ)か、1(アクティブ)か」の二択でしかないシンプルなシステムです。
どちらが「正しい」か、議論する必要なんてないのです。あなたが判断しなければ(考えなければ)ならないのは、相手の言葉(意見)を「受容」するか「反撃」するか、心のスイッチをどちらにシフトするか「決める」ことだけです。
ドラマや映画を観ている時、もしくは小説を読んでいる時、会話の構造を見極めてみて下さい。そこで行われているのは「0/1」のスイッチングでしかありません。スイッチング以外は全部「独り言」です。会話と言うのは本質的に「ボケ(受容)」と「ツッコミ(反撃)」の繰り返し(連続)で成り立っています。
恋人の愚痴や自慢話にうんざりすることもあるかとは思いますが、そこで「だから、それはさ」と答えや結論を急ごう(反撃しよう)とはせず、愛があるなら「うん、そうだね」と相槌を打って(受容して)あげましょう。当たり前だけど、誰だって自分を受容(肯定)されれば嬉しいのです。例え、いくつになっても。
うつ病に苦しんでいらっしゃる方も「所詮、人間関係なんてボケとツッコミだ!」と割り切って世間を見回してみて下さい。きっと、生きて行くことが少しだけ楽になります。



心の内部で行われている「パッシブ」と「アクティブ」の切り替えとは、「自我シールド」で情報(刺激)を遮断する(ATフィールド・ON)か、「自我シールド」を解放し(ATフィールド・OFF)、情報(刺激)を心の内部に受け入れる(変化を許容する)かのスイッチングです。自我シールドを完全に解くことが出来た時が、恐らくは「心の病が完治する時」。
ちなみに「洗脳」とは「心の形を無理やり変えること」であり、「宗教」とは「全面的な受容」を意味します。仏様の言うことならば何でも受け入れるのも「宗教」だし、聖書に書いてあることならば何でも信じるのも「宗教」。レディー・ガガのやることなすこと、何でもかんでも受容してしまうのも「宗教」だし、彼氏彼女の言葉なら何でも素直に受け入れてしまうのも「宗教」。もし、「コイツのやることなら何だって許せる」という相手がいたら、その相手があなたの教祖です。
もし、自分でオリジナル宗教を立ち上げ、教祖になって金を稼ぎたければ、もしくは商品を売り込みたければ、営業成績を上げたければ、人の心の自我シールドを外す方法を見つけて下さい。

*『ブランドと偏見』

思いやりの心は人生で成功する究極の源です。利己的な考え方は他者を害するだけでなく、まさに自分が望んでいる幸福を阻害します。

 ……と、ダライ・ラマ14世が語っていると「うーん、さすがいいこと言うな」という場合でも、同じことを売れない作家が書いていると「そんなことはお前に言われなくても分かってるよ」と感じたりします。でも、そうした偏見を持つのは人間の心理構造としては当然の働きなのだと思います。
 パリッとしたスーツを着ている人はきちんとした人間に見えるし、だらしない恰好をしていればだらしなく見えるし、大きな刺青をしている人を見れば怖そうに見えます。そうしたファッションや外見は人間の中身/本質とは関係のない偏見ですが、偏見を無理に排除したり否定したりする方が不自然です。
 ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥先生のiPS細胞の研究のように、誰でも眼で見て価値を理解出来る認識対象は脳で処理出来ます。しかし、抽象度の高い認識対象、例えば芸術作品や映画、哲学や宗教についての話は、その時その場所のタイミングでツボに入れば「おお、すごい」と感じますが、ツボに入らない対象は脳で処理ので心に落とし込まれます。先ほども書きましたが、心というのは、インプットがあるとパッシブ・ポジション(受容スタンス)を取るか、アクティブ・ポジション(反撃スタンス)を取るか無意識に判断します。この時、心が「受容」か「反撃」か、どちらにシフトするかのスイッチになるのが、認識対象のファッションであり肩書であり偏見なのです。
 苦労して工場を作った中小企業の社長さんの方が、ダライ・ラマよりも、はるに人生の含蓄が深い場合だって、まま、あるのです。でも、中小企業の社長さんが居酒屋で人生について語っていても誰も話を聞かないけれど、ダライ・ラマが公の場で話をすれば、20万人が即座に集まる。それは、社長さんとダライ・ラマの人間性の違いではなく、ブランド力(金にまみれた世俗の宗教とは違う、精錬で潔白なイメージ)の違いです。そして、そのブランド力は、脈々と受け継がれて来た王制と同じで、ダライ・ラマ本人が血と汗にまみれ、自分の力で獲得した「力」ではありません。

 ルイ・ヴィトンのバッグから「ルイ・ヴィトン」というブランドを外したら、本革のバッグを300円で売ることも難しいだろうし、ムラカミ・ハルキ作品から「ムラカミ・ハルキ」というブランドを外したら新作を300部売ることも難しいでしょう。東大から「東大」というブランドを外したら、「東大」を受験する学生は一人もいないかも知れない。そして、ダライ・ラマから「ダライ・ラマ」というブランドを外したら、彼の話に耳を傾ける人は誰もいない。

 現代社会は格差社会と言われますが、その格差を作っているのは、実は「実力的な内容」ではなく、「ブランド力」です。ブランド・パワーを有する場所に、人も金も集まる。そして、そのブランドの力は、努力や技術ではなく「起爆」→「拡散」→「定着」というプロセスによって作られます。「起爆ボタン(ティッピング・ポイント)」をスイッチングするのは、社会全体の「フロー」であり、人の力ではどうすることも出来ません。どれだけ内容や技術が優れたマテリアルを、莫大な広告費を使って宣伝しても流行らないものは流行らないし、どれだけ無意味で劣悪なマテリアルであっても、爆発的に拡散する場合もある。それは、人智を超えた(人間には推し測ることの出来ない)社会全体の動き、流れ(ネットワーク全体の変化/シフト)だから、どれだけがんばっても人間には作り出すことが出来ない。インターネット全体の動きを意図的にコントロール出来ないことと同じです。
「死ぬ思いでがんばっているのに、どうして売れないんだ?」と自分を責めない方がいい。どれほど、がんばっても売れない時は売れない。やるべきことをやったら、後は時流を待つことが必要です
一度形成されたブランドはパワーを持つし、ブランドの語る言葉に、人は耳を傾けます。
 人間の「偉い/偉くない」という格差/偏見を生み出しているのは、人格でも行いでも、物理的/経済的な力ではなく「ブランド」です。
 例えば、ブランド・イメージの悪い総理大臣が、どれほどの金と権力を使って国を動かそうとしても国民は彼の言うことを聞きませんが、ブランド・イメージの極めて高い総理大臣が何か言えば、話の内容とは関係なく、大半の国民は彼の言うことを聞き入れます。かつて、ヒットラーの語る言葉に多くの国民が従ったのは、大衆が彼に「騙された」からではありません。「ヒットラー」がブランドだったからです。そして、そのような思想、政治家の「ブランド化」は、いつの時代、どのような場所でも起こります。どれだけの金と力と知性を持っていたとしても、大衆は「ブランドの力」に抗うことは出来ません。なぜなら、人間の「心」の中には、「パッシブ」と「アクティブ」の切り替えスイッチが付いているからです。
 動物と同じように、人間も相手が自分より強い=偉いと心がジャッジすれば、犬が敵に腹を見せて降参するように、受容スタンスを取っても自我は傷付きません。しかし、相手が自分と同等か、それ以下と認識した相手には自然と攻撃的なスタンスになります。一般的に人間も、明らかに自分より肉体的に強い相手、社会的に偉い相手とはケンカしません。逆に、自分より下もしくは同等と認識した相手のアクション(働きかけ)を無理矢理受容させられると自我はダメージを受けます。
 例えば「あなたの、そのネクタイのセンスはどうにかした方がいいよ」と尊敬する社長から言われれば「あ、確かにそうだな。さすが社長」と思う場合でも、内心見下しているクライアントから同じことを言われたら「ふざけんな、この野郎」と思ったりします。そして、その尊敬する社長が、キャラもルックスもそのままに下請け子会社のパートさんになり、同じことをあなたに対して言ったとしたら、やはり、多くの人は「ふざけんな、この野郎」と思うと思います。
 つまり、偏見(ブランド)と言うのは認識対象に対して、心がパッシブになるかアクティブになるかの切り替えスイッチの役割を果たしているので、偏見を排除して無理に中立の立場(フラットな視点)を取ろうとすると、逆に人間の心は混乱してしまいます。だから、むしろ、自我(エゴ)を自衛するためには、適度な偏見(バイアス)は持っていた方がいい。



一見、何でも平等にした方が「良いこと」のように思えますが、例えば、立場が完全に対等の夫婦は、それだけ対立も深く、ケンカもストレスも多くなります。「カカア天下」で旦那がブーブー言いながらも、嫁さんの言うことを素直に聞いていた方が、妻が夫を「殿」と持ち上げ、チヤホヤしていた方が、夫婦関係はうまく行く。そうした上下関係や偏見は、上から下へと物事をスムースに流すためには、必ずしも悪いものではないのです。
また流行(ハヤリ)に身を委ねるのも悪いことではありません。カラオケで流行歌を歌うことも、流行のファッションを身にまとうことも人間は「楽しい」のです。肩肘張って自我シールドをONにせず(自分を防御しようとはせずに)、心を解放すればストレスは消えてなくなります。
自然の、時流の流れに身を任せて生きることが出来れば、とても楽に生きることが出来ます。川の流れに逆らわず、水の動きに舟を委ねてしまえば、何ものにも疎外されることなく、自然と大海へと辿り着くように。


 

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【定価】1,620円
【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
 
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