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もし、この本を世界中の人が読んだ時点で世界平和が実現していなかったら私の命を差し出します。:著者

3:哲学的な問題の解決マニュアル

 
*『自分とは何か?』

 よく「自分でも自分のことなんて分からない」と言いますよね。20年ほど前にベストセラーになった『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著/NHK出版)という哲学ファンタジー小説では、14歳の女の子の元に「あなたはだれ?」と書かれた差出人不明の手紙が舞い込むことから物語がはじまります。そして、主人公が「自分とは何か?」「この世界はどこから来たのか?」と考えながら哲学の歴史を紐解いていくわけですが、結局、物語が終わっても結論は出ません。つまり「自分とは何か?」という問いは、哲学の永遠の命題なのです。
会社員であれ、哲学者であれ、心理学者であれ、多くの人は自分が自我(自分という人格)を持っていることは当たり前の事実だと考えています。この現代における常識的な世界観の起源になっているのが近代哲学の祖であるルネ・デカルト(1596-1650)です。彼は、この世界に確かなものなど何もなくても、この世界のすべてが自分の頭の中に思い描いている幻影に過ぎなかったとしても「そのことについて思いを巡らせている私自身の精神が存在していることは揺るぎようのない事実だ」と考えました。デカルトが「自我」という概念を前面に押し出すまで、人間は「自分とは何か?」なんてややこしいことは、あまり考えなかった。つまり、現代人に「自分探しの旅」をはじめさせるきっかけを作ったA級戦犯がデカルトなのです。
私はデカルトのように自我というものを唯一無二の絶対存在とは考えていません。自我は、人間の脳が言語というシステムによって人工的に作り上げた仮想概念です。10年前の『THE ANSWER』では、それは私の単なる主張に過ぎませんでしたが、この考え方は前述のピダハン部族の人たちによって立証されたように思います。
 彼らは、夫婦/家族/親族という境界線を持たないように、自分と他人も、ほとんど区別して考えていません。なぜなら、彼らは限りなく動物に近い、自然存在としての人間だからです。
 動物は「自分とは何か?」とは考えないし、悪口を言われても怒りません。動物も敵の攻撃から身を守りますが、守るのは身体としての自分。しかし人間は身体の中に宿した精神の、さらにコアにある自我(エゴ)を守るために、自分の人格が傷付かないように、心に様々なバリアを張り巡らせている。
知識武装してエゴを自衛したり、他人を見下し、批判することによって自分の価値を高めたり、人間を順位付けすることによって他者と自分をを差別化したり……。時には、相手に怒り、憎しみをぶつけることによって、もしくは、自分が悲劇の主人公になることによって自我を守る。人は、心を傷つけないために自殺さえする。自殺してしまえば身体は消えてもプライドは、自我は永遠に傷つかないから。
 例えば、金も地位も住む場所も何もかも失い自殺したAさん、という人がいたとします。もしAさんが、元々、周りがみんなホームレスの終戦直後の焼野原やインド・コルカタ(カルカッタ)の路上で暮らしていたら自殺しなかったかもしれない。でも、今の日本で暮らしていたら自殺してしまうのは、生きるのが物理的に辛く、苦しいからではなく、周囲と自分を比較した時の社会的尊厳の問題なのです。動物として生きて行くこと自体はゴミを漁っても、ネズミを食べても、例え素っ裸でも可能だから。つまり、Aさんはプライド=自我を守るために命を捨てたのです。
そもそも、ピダハンのように元々、自分と他人を区別して考えていなければ、自我なんて面倒なものを人間の心はしょい込みません。守るべき自我がなければ、心は外界からの刺激に対してパッシブ・ポジション(受容スタンス)もアクティブ・ポジション(反撃スタンス)も取る必要がなくなります。中立というより動物の心に近い存在として。ピダハンを怒らせたり、苛立たせたりするのが難しいのは自我を守る必要がないからです。「所詮、オレなんて……」の「オレ」が無ければ、何を言われたって腹も立ちません。
 ピダハンは折に触れ、人生で何度か名前を変えます。名前が変われば、別の人間になることも可能です。私という人格は、「鈴木剛介」という名前によって枠を与えられた記憶の総体でしかない。人間が生まれ落ちた過去から一連の統一した自我を維持していると感じるのは、一重(ひとえ)に長期記憶があるからです。人間の長期記憶とは、ハードディスク(脳)に保管してある、言語によって意味付けされた二次データのことです。
 例えば、短期記憶しか持てない記憶障害の人が、周囲に人も文明の痕跡(こんせき)も一切ない無人島に、覚書(おぼえがき)をするためのペンも紙も持たずに長期間放置されたら、いずれ自分が何者なのかも分からなくなり、自我を維持出来ずに限りなく野性に近付いて行ってしまうと思います。
 人は子どもの頃の写真を見て、過去の自分を懐かしみます。けれど、昔、おじいちゃんと一緒に遊園地に遊びに行った記憶は、例え長期記憶があったとしても「昔」「おじいちゃん」「遊園地」という言葉を知らなければ記憶としての意味を持ちません。つまり、言語OSがなければ、過去の自分と現在の自分は連環しないのです。一つながりの一貫した自己は、あくまで言語によって記号化された保存データに依拠した仮想概念でしかないのです。

さらに抽象度の高いレベルでは、神経学者たちは化学と心理学が重なり合い、さらにそこへ言語力が加わってくるような、そんな領域に足を踏み入れることになった。彼らが問題にしていたのは化学ではなく、むしろ記号論だった。つまり、記号がいかにして観念や対象に割り当てられ、それが、思考と呼ばれる、まだほとんど解明されていない過程で、どのように操作されるのかということだ。ある物が他のものを表すことなどということがどうして出来るのか。われわれが脳と脳の間でおこなっている言語による交流の本質は何なのか。
ジョージ・ジョンソン著『記憶のメカニズム』(河出書房新社)

つまり必要最低限の言葉しか持たず、記憶にいちいち意味付けしないピダハンには自我なんてないのです。彼らは、自分たちが知り得ない物事に関しては一切興味を持たず、関心を向けない。その状態を達観と言えば達観だし、無知と言えば無知ですが、ピダハン社会には抑うつも慢性疲労も精神疾患もありません。ピダハンは誰も慌てないし、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙(ごい)もない。マサチューセッツ工科大学の認知科学研究チームはピダハンを、これまで出会った中で、もっとも幸せそうな人々と評したそうです。なぜなら、どんな社会と比較しても彼ら、彼女らが微笑み、笑っている時間が長いから。
デカルトは「コギト・エルゴ・スム=我思う、ゆえに我あり」と主張しましたが、それは500年以上昔の話。そろそろ「我思ってるけど、実は我なし」という哲学にバージョン・アップしてもいいのではないかと思います。
 「自分」なんて探さなくていいのです。「自分」なんて、そもそもないのだから。

註:本書『ハートメイカー』におけるピダハンについての記述の多くは、D・L・エヴェレット著『ピダハン/「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)に負っていますが、昨年放送されたNHKの海外ドキュメンタリー(オーストラリアが2012年に制作)によると、現在、ピダハン部族の村には、ブラジル政府の支援(?)で家や電気、水道、トイレ、病院、学校が作られ、ポルトガル語の教育が行われて、テレビまで置かれているそうです。本当に文明って何なんだろうと、つくづく頭を抱えてしまいます。

*『数学とは何か?』

 2+2は4だとするのは一般的に合意されているからで、その公式が外界の現実に一致するからという理由ではない。
ジョン・ホーガン著『科学の終焉』(徳間書店)


私はもともと、他人がやっていることに興味がありません。ボクシングも、自分がやるのは好きだけど他人がやっている試合に興味はない。哲学も、自分の頭で考えるのは好きだけど他人の考えを学ぶことに興味はない。でも、多くの人はスポーツ観戦が好きだし、他人が書いた本を読んで勉強することを好む。だから、私は普通の人とは物事の見方や考え方のベクトルが逆を向いているのだと思います。小さい頃から一貫して。
今だからクリアに表現出来るのですが。所詮は1+1=2というのも他人が考えたことなのです。私は物心(ものごころ)付いた頃から、根拠が不明確なことにはどうしても納得出来ないタチだったので、6歳から26歳まで「何で、1+1は2なの?」と延々考え続けて来たのですが、それを40歳を過ぎた今、小学生だった自分の気持ちを代弁すると「何で、1+1=2という他人が考えたことを押し付けられなきゃならないの?」という生理的反発だったのだと思います。でも、1+1=2というルールを知らないと現代社会では生きていけない。つまり「1+1=2」は「赤信号では止まれ」と、まったく同じフィールド上にあるルールなのです。
「なぜ、信号の止まれは赤なのか?」という問いに対する答えは、誰かがそう決めたから。「1足す1は、なぜ2なのか?」という問いに対する答えも同じ。誰かがそう決めたから。そして「赤信号=止まれ」というルールも「1+1=2」というルールも何を根拠に誰がいつ、どうやって決めたのか、私も含めて、みんなあまり良く分かっていない。基本的人権とか数学の公理と同じように、誰もが根拠の基盤があいまいなままに、何となく長い間使い続けているベイシック・ルール。
 「無限小の点」という概念を数学的に定義出来たとしても、「無限小の点とは何か?」という問いに数学は答えることが出来ない。なぜなら、この世に生まれたのは、まず言葉で、その後に生まれたのが数だから。言葉という不確かな土台の上に構築されているのが数学という体系だから。数学者にとって素数は大きな研究テーマですが、素数という概念は言葉がなければ定義することは出来ません。純粋に数式だけを黒板に書き出したとしても、その数式を言葉を使わずに生徒に説明することは出来ない。そして、数学は、数学の力単独でゲーデルの不完全性定理という壁を突破することは原理的に不可能です。
 数学は世界から独立した純粋抽象体系ではありません。数学体系は、あくまで言語というフィールドの上に作られたリングです。どれほど高度で難解な数学であれ、その体系は、あくまで人が決めたルールに基づいて作られたゲーム。ストリート・ファイトではなく、ボクシングと同様にリングの中でルールを前提に行う競技/学問。それが数学。リングの外でルール無用のバトルを闘い、宇宙や存在のすべてを包括する究極の答えに到達することは数学には出来ません。数学が到達することが出来るのは、あくまで数学的真理のみです。だからこそ約6メートル四方の限られたスペース(宇宙)の中でボクシングが無駄を削ぎ落としたシンプルな芸術性を持つように、数学も美しく崇高なのだと思います。何でもありの哲学みたいなバトルは総合格闘技みたいな感じで、どこか泥臭いですから。
 ボクサー(数学者)と総合格闘家(哲学者)が路上でケンカしたらどちらが強いか? というのは興味の尽きない学術テーマですが、組み技に持ち込まれたらボクサーに勝ち目がないのは確かです。

*『社会システムの本質』

私は政治というものに興味がないので、めったに選挙には行きません。行かないと決めているわけではないのだけど気が向いた時にしか行かない。一方で、妻は私と違ってまっとうな社会人なので、誰に入れるかは関係なく選挙には絶対に行きます。
先日も「あれ? そう言えば、小夜(さよ)、選挙行ったの?」と訊いたら、血相を変えて慌ててネットで顔ぶれを調べ「入れる人がいない……」と呟きながらダッシュで家を飛び出して行きました。私が彼女をこよなく愛し、尊敬するのはそういう部分です。

内容や理屈はともかく、やるべきことはちゃんとやる。

というところ。
理屈はともかく何はともあれ選挙に行くというのは、今の社会にあっては守るべきモラル(義務ではないけど、大事な権利)です。だから、そのルールを、まっとうな社会人としての母親が子どもにきちんと教えるのは大切なこと。「じゃあ、パパは、どうして選挙に行かないの?」と、子どもに訊かれたら「パパは行きたくないから行かないの。大きくなったら、そういうことは自分で決めていいの」と答えると思います。我が家の子どもたちは、そこに矛盾を感じません。なぜなら、元々「パパとママは違う人間だから、言うことが違うけれども、うちの家族のリーダーはママだからママの言うことを聞きなさい」と教育しているからです。アマゾンやアフリカの原始的な部族も、そんな感じでシンプルにリーダーを決めているのではないかと思います。それが高度文明社会になると、選挙というややこしいシステムになってしまうわけですが。
民主主義というのは突き詰めて言えば「リーダーによる独裁を封じるために、みんなで集まって多数決で決めましょう」という社会システム(ルール)ですが、裏を返せば「誰も何が正しいか分からない」ということです。「じゃあ『正しさ』とは一体、何なのか?」ということを考えるのが哲学のそもそものミッション。そして『THE ANSWER』で提唱した「QAS(Question and Answer System)」という組織/国家運営システムの本質もそこにあります。

 構成員全員に対して「意見の受け皿」が開かれた上で「判断基準」「責任/決定範囲」「情報の伝達経路」がクリアに明示されていれば(ルールを守るかどうかは別の問題として)構成員の間で意見が対立することは原理的にありえない。

だから、ウチの夫婦は相談はしますが、意見や主張を巡ってケンカすることもないし、議論もしません。「家族」という社会組織の運営において「最終的に誰が、どうやって決める事案か」と言うことが常にクリアだから。お互いイラッと来てしまうことは、たまにはありますが。
もちろん、我が家にISO(国際標準化機構)みたいな細分化された組織運用マニュアル、厳密なルール・ブックがあるわけではありません。我が家における「判断基準」や「責任/決定範囲」はあくまで暗黙のコンセンサスですが、組織で意思決定するならば、それをクリアにしておけばいいだけの話です。「判断基準」や「責任/決定範囲」「情報の伝達経路」を曖昧(あいまい)にしたままシステムを放置するから、例えば福島第一原発事故の責任のなすりつけ合いのような醜悪な政治/企業運営が行われる。

「汚染水は100パーセント、コントロール下にあると総理はおっしゃっていますが?」
「その件については、わたくしどもの方ではお答えしかねます」
ある日のニュース

 「QAS」というのは一見、ごくシンプルな循環型意思決定システムですが、骨格さえしっかり出来ていれば組織のスケールは関係ありません。木造家屋だろうが、超高層ビルだろうが、アールヌーヴォー建築だろうが、土台があって柱があって壁があって屋根があってというフレーム・ワークは同じだから、意思決定のプロセス自体は、中小企業でも国連でも同じで良いのです。システム構造の設計が出来ていなければ、表面的な問題をいくら修復しても、本質的には何も解決しません。
 会社で上司の尻拭いに追われている方も、沖縄基地移設問題に頭を抱えている官僚の方々も、家に帰ったら、ご家庭の問題をよく考えてみて下さい。「それは最終的に、誰がどうやって決める事案なのか?」ということを。例えば、あなたは部屋の片付けの仕方で奥さんとケンカになった時、どうやって、どちらの方法が「正しい」と判断しますか? 妥協案や多数決を持ち出しても、本質的な解決には決して至らないし、きっと、またケンカになります。まずは「決め方」を決めなければなりません。そして、家庭は社会の縮図です。
家で出来ないことは会社や政府でも出来ないし、会社や政府で出来ることならば家でも出来ます。

*『人はなぜ生きるのか?』

 人間は言葉=理性を持ったことにより賢くなったと言うより、むしろ、ややこしくしちめんどうくさい存在となり、憎しみや悲しみや怒りに苦しむようになりました。支配欲も独占欲も金銭欲も裏切りもメンツも言葉があるからこそのこと。言語発生する以前、人間がまだ動物だった頃は、誰もそんなことに苦しんだりはしなかった。食い物がなくて困ったことや、寒さに震えたこともあっただろうけど、きっと、自殺するヒトなんて一人もいなかった。
それが聖書に書かれた「知恵の実」の比喩の意味だと私は思います。人類の不幸は言葉=知恵を持ったことによりはじまった。

 ふと、自分はなぜ生きつづけているのかという馬鹿ばかしいほどプリミティブな疑問が、脳裡をよぎる瞬間がある。そんな時、暗い奈落の底から視野に入ってくるのは、一群の若い死者たちの姿である。なぜ死んだのか、なぜ生きつづけられなかったのか。しかし、そう問うことは、逆になぜあなたたちは生きつづけられるのか、死者から問い返されることでもある。

「長距離ランナーの遺書」の中で沢木耕太郎さんはそう語っています。東京五輪の陸上競技で日本に唯一のメダルをもたらし、その後、頸動脈(けいどうみゃく)を剃刀(かみそり)で抉(えぐ)って自殺した円谷幸吉さん(1940-1968)について書かれた文章です。(文春文庫『敗れざる者たち』収録)
いくらオリンピックで念願のメダルを手に入れたとしても、その喜びは、いつかは醒めるし、むしろ、その後の人生で過去の栄光に苦しめられることさえあるかもしれない。どんなにがんばって夢を叶えたとしても、幸福になれる保証はない。また、ひたすらに恋焦がれ、待ち続けた王子様と晴れて結婚したとしても、その後には不幸な結婚生活が待っているかもしれない。そして、金持ちには金持ちの孤独やむなしさがきっとある。でも、言葉を必要としない動物的な愛(アフリカの草原の大樹の下、ライオンのお父さんとお母さんが寄り添い見守る前でライオンの兄弟がじゃれ合っているイメージ)に包まれている時にだけ、人間は真の幸福感に包まれる。それは人間が頭で作った概念としての幸福ではなく、動物としての人間にそもそも備わっている本能的な「満たされてる感」だから。
 現代日本社会は「夢プレッシャー」で溢(あふ)れています。「夢を持ちなさい」「夢に向かってがんばりなさい」「夢を持つのは素晴らしいことです」「将来の夢はなんですか?」……。
 まるで夢のない人は悪い生き方をしているようです。でも、そんなもの、一つの考え方、偏見、バインドに過ぎません。「夢を実現しなければならない/夢をあきらめた」と考えるから苦しくなる。愛があれば、夢なんてなくてもいいのです。
 あなたが念願のトップ・アイドル、大金を稼ぐスポーツ選手、尊敬を集めるノーベル賞受賞作家になったとしましょう。では、その夢が実現した後の人生を、あなたはリアルに考えたことがありますか?
人間が生きるために夢や目標や理由を必要とするのは、純粋に言葉を持ってしまったからこそのこと。
「夢」「目標」「理由」という言葉を知ってしまったから、脳の中に「人生」という言葉を書き込まれてしまったから人生について悩んでしまう。動物は生きることに理由なんて必要としない。虫も、花も、石も、存在の意味を必要としない。
 儚(はかな)きものの代名詞であるカゲロウは、ものを食べることもなく、成虫になってわずか一日の寿命で、その生命を終えます。じゃあ、何のためにカゲロウは生まれて来たのか? と人は問います。でも、これが生命のもっともピュアな姿です。そして、寿命の長さが違うだけで、生まれて来たことの意味はカゲロウも人間も変わりません。
 人間に与えられた本来の使命は三つしかありません。「食って、糞(くそ)して、子どもを作る」それだけです。文化的な衣をはぎ取ってしまえば人間も動物と同じ。頭の中に言葉がなければ、人間はただの動物です。だから、そんなに人生を難しく考える必要はないのです。ちゃんと食べることが出来て、健康で、子どもを元気に育てることが出来ればそれでいい。社会というのは、そのためにあるようなものだから。例え、自分で子どもを産むことが出来なくても、子どもを育てることは誰にでも出来る。もし私と妻が明日、揃って死んでしまったら、私たちの子どもが成長するまで、ほんの少しでいい。あなたの力を貸して下さい。
 人間は「人の間」と書きます。
たぶん、人間にとって一番不幸な生き方は無人島で暮らすこと。もし、人間に幸福を追求する権利があるのなら、それは孤独にならない権利。動物だって独りきり隔絶された環境に置かれたら生きてはいけない。でも、孤独になる、ならないは、本質的には社会の問題ではなく、きっと、あなた自身の問題です。だって、あなたが暮らす場所は無人島ではないのだから。


 

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【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
 
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